会社、辞めました(通算1回目)。その2〜物作りの原点〜
どうも、下田(@shotarouzaemon)です。
今は会社に行く事もなくなって、朝起きてコンビニいに行って1日分の飲み物を買ってそれから音楽を聞きながら、家に籠って作業をしています。自宅兼作業場だから移動するという行為がなくて楽なのですが、これが良いのか悪いのか、境目がなくなってしまうので甘えが生じないかが心配です。
が、それも今後どう感じるかですね。それについてはまた違うエントリーで書きたいなっておもいます。
昨日のエントリーでは、入社してから2年目が終わるまで。
今日はその後のお話。
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なかなか前に進まない3年目
中国研修を終え、「アパレルのおかしいところを変えるんだ」と意気込んで迎えた3年目。会社では最も大きいブランドの生産MD(生産に特化したMD)のアシスタントとして働くこととなりました。
(生産MDとは皆さんが知っている、アパレルのMDの生産バージョンです。通常、アパレルでいうMDとはブランドにいて売上予算やその付随する仕入予算の中で商品のラインナップと、その商品の数量やカラー展開などを決める役職の人で、生産MDとはブランドの特性に合わせた生産背景や生地背景、納期に合わせた生産スケジュールの立案、コスト管理などをする役職です。)
この役職に付けたことは非常にモチベーションが上がりました。だって、中国で感じた日本側の理不尽な要求を変えることのできるポジションでしたから。
営業MDと生産MDはぶつかり合いです。営業MDは「売れる商品を作りたい」という思いが強く、生産MDは「良い商品を作りたい」という思いが強いからです。
この場合、「良い商品」=「売れる商品」であれば、なんの摩擦もなく、進めることができるのですが、そんなことばかりではなく、コスト、納期、品質、最低発注数(生地を生産するために最低必要な数量、中国だとおおよそ1色1000M程度)の様々条件のなかで、どれを優先順位を付けて商品を作るのかでまず、ぶつかり合いが生じるのです。
しかし、やはり売上予算を持っているのは営業MDですから、数字が届かなくなるのが、一番怖い。そして、生産側も予算の話をされると「良い物=売上につながる」を完全に担保できるわけではないので、コスト優先の商売になってしまうのです。(もちろん、「絶対に良い商品を作ったら売れます!」と根拠がないけれども、相手を圧倒する発言ができれば、提案が通ることもありますし、全ての商材がコスト優先なわけでもなく、総じて多いということです。)
そんな自分の想いと現実の仕事とのギャップが段々と大きくなり始め、自分の想いを伝えきれないもどかしさや、実行できないことに対する失望感を抱きながら早くも3年目が終わっていくのでした。
(高校野球だったら最後の夏はとっくに終わっているのに。。。悔し涙もでませんした。)
悔しいから動く、知らないなら知る!の4年目
良い商品を作りたいなら、良い商品を知らねばならぬ。
もやもやして、仕事のやる気も起きず、4年目も3ヶ月も経ったくらいの頃、なんのきっかけか分からないですが、ほぼ日刊イトイ新聞で日本の物作りの記事を読んだのです。
そのときに、なぜか本気で感動したんです。こんなに自分のやっていることに対して自信を持って話している人がいる。申し訳ないですけど、自分の会社にはそんな人は居なかったんですよ。みんな、やれコストだ、やれサプライチェーンだ、仕組みの話をする人ばかりで、1つの商品は1つの「無機質な物体」としてしか考えてなくて、想いが全く入ってない物ばかりが作られていく、そんな状態だったわけです。そこに和田さんという、こんなに輝いているおじいちゃんを見たときに素直に羨ましいなと思ったんです。
いざ和歌山へ
すこし話はそれますが、自分は昔から行動力がない人間だったんですね。目の前に川があって、向こう岸には誰も行った事のない未知な世界があるとしたら、まずこちら側に残るタイプです。とりあえず、勇猛果敢な人たちにまず向こう岸に渡ってもらって、安全が確認できたら、渡るタイプです。
なにが言いたいかというと、何かに感化されてとりあえず飛び出すみたいなことは自分の人生において異例だったわけです。常に安全運転、各駅停車でしたから。
その自分が直接電話して「とりあえず見学させてほしいんです」って頼み込んで、和歌山への夜行バスチケットをとって、和田メリヤスの和田さんの元へ、旅立ったんです。それが2016年7月の話。
和田さんの元へ着くと、「この生地はゆっくりゆっくり編んでいくからなあ、効率悪いけど、すごい着心地の良い生地ができるんやなあ。」とか言うわけですよ。わけがわかんなかったです。だって今まではどれだけ早く、安く作るかだけを考えていたわけだから。
このときから、やっぱ物作りはただ作っているだけでは駄目だと思ったんです。自分たちが自信を持って作って、それが買ってくれる人たちにとって良い物であって、作り手も買い手もみんなが豊かになれる物を作らなくちゃって。
少しずつで良いから変えていくこと。
そんな想いを持ちながら、本業の方は、ブランドが許す事のできる範囲のコストで出来るだけ良い物を作ろうと仕事をしていました。このときは生産MDとして一人立ちしていて、自分の権限の範囲で出来ることが増えていたので。出来ないこともあったけど、和歌山訪問を通して、自分が良いと思ったことはちゃんと自信を持って発言するようにしていました。例えば、自分のカテゴリで30個商品があったとしたら、そのうちの2個でもいいから、自分の想いが入ったものを作る。それが売れれば、自分の想いの入った商品の割合が増えていく。そんな感じで順調に、売上も良かったし。
一気に変えることは難しくても、少しずつであれば、変えることができる。大きな組織ではこれが、長く仕事をしていく上で大事なことだと。色んな人と話し合いながら、自分の想いを伝えていく。そういう地道な行動が組織を変えるためには必要なことだと強く感じた4年目。
おかしいと思ったから、会社を辞める。
ブランド異動
どこのアパレル会社もそうですが、自分が勤めていた会社もいくつものブランドをもっていました。マルチブランド戦略といって、価格帯やターゲット層、テイストによって分けられたブランドが複数ある状態です。
3年目からずっと300億売上規模のブランドの生産MDをやってきたのですが、その傍ら30億円売上規模(1年目に担当していたブランド)も担当していました。
そこへの異動が決まったのです。理由は売上増加のための生産強化ということでした。ブランドから生産強化を依頼され、それに指名されるのは非常にありがたいことでした。なので、即アサインしました。自分の中でも、今までの経験でブランドを変えることができると本気で信じていました。
ということで、2017年3月新たなブランドへと異動しました。
変えることの難しさ。
毎度のことなのですが、何か新しい契機があると、変な使命感を持ち、自分がやらなくてはいけないんだという感じになってしまうのが悪い所でもあり、今回も性懲りもなく、その状態になったまま着任をしました。
まあ、結論から言うと失敗しました。
原因は、ブランドの特性に合わせることをしなかったからだと思います。ブランドによって、テイストや価格帯が違うのと同様に、生産方法も違います。計画的に大きな数量を動かしてコストメリットを図るブランドもあれば、出来るだけ引きつけてトレンドを見極めクイックに作ることで的中率を上げようとするブランドもあります。その中で、僕はブランドの特性に合わせることなく、自分の中の正解をブランドに押し付けることで物事を解決しようとしていました。それが間違いだったのです。
決意
間違いだったのは、ブランドを変えるためにとった手段であって、自分の中での想いは変わりませんでした。ただ「コストやトレンドに合った物作りをする」のではなく、自分の自信を持ったものを作り続けなくてはいけない。お金やトレンドも大事だけど、それよりも服への想いの方がずっと大事だ。
だから、2017年7月、僕は辞めることにしました。
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明日はこれからのお話。
それではまた。